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人類には地球が必要だ。
だが、地球は人類を必要としていない。
この単純すぎる事実から目を逸らすために、人類は今日も美しい言葉を量産する。
「地球を守る」「サステナブルな未来」「人と自然の共生」。
耳触りはよいが、その実、自己欺瞞を装飾した標語にすぎない。
そもそも「地球を守る」とは、何様の発言なのか。
46億年生き延び、隕石衝突、超火山噴火、全球凍結すらくぐり抜けてきた惑星が、
たかだか数十万年の歴史しか持たない霊長類の善意を必要とするはずがない。
笑止千万である。
人類が守ろうとしているのは地球ではない。
自分たちが“住める状態の地球”であり、
正確に言えば「これまでと同じ快適さを維持したい自分たちの生活圏」だ。
それを「地球愛」や「環境意識」にすり替えるから、議論は常に歪む。
地球は人類がいなくても存続する。
人類が絶滅しようが、二酸化炭素濃度が急増しようが、
海が酸性化しようが、
地球はただ相転移を起こし、次の状態へ移行するだけだ。
苦しむのは地球ではない。
苦しむのは、適応できなかった生物群・・・その中に人類が含まれるだけである。
それでも人類は、自らを「地球の管理者」だと錯覚する。
温暖化を“止める”
自然を“守る”
生態系を“回復させる”
どれも傲慢だ。
人類にできるのは、せいぜい破壊速度をわずかに緩めることと、
自滅のタイミングを先延ばしにすることだけだ。
それを「地球を救う」と呼ぶのは、
崩れ落ちる家の中で家具の配置を議論するような滑稽さがある。
さらに悪質なのは、
「地球を守る」という言葉が免罪符として機能している点だ。
この言葉を掲げることで、人類は問いを回避する。
本来問うべきなのは、
「人類はこの規模で存在し続ける資格があるのか」
「成長を前提とする文明は、そもそも持続可能なのか」
という不都合で不快な問いのはずだ。
だが、それを正面から語る勇気はない。
だから代わりに、地球を擬人化し、被害者に仕立て上げ、
自分たちは“守る側”に立つ。
この倒錯こそが、あらゆる災いの源である。
地球は沈黙している。
だがそれは弱さではない。
意見を述べる必要がないほど、圧倒的に無関心なだけだ。
人類が消えた後も、地球は続く。
新たな生命が芽吹くかもしれないし、
何も生まれない静かな惑星になるかもしれない。
いずれにせよ、それは地球にとって“問題”ではない。
問題なのは、人類がこの事実を受け入れられないことだ。
自分たちが主役でない世界を想像できないこと。
必要とされていない存在である可能性に、耐えられないこと。
だから今日も人類は言う。
「地球を守らなければならない」と。
違う。
守られるべきなのは、
人類自身が作り上げた幻想と、その上に築かれた脆弱な文明だけだ。
そしてそれが守れるかどうかは、
もはや地球の関知するところではない。
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