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人は、動かないものを生物として認識しにくい。
それは視覚に強く依存する私たちの認知の癖であり、同時に現代社会が抱える静かな盲点でもある。
植物は動かない。少なくとも、人の歩行や動物の挙動のように、即座に「変化」として捉えられる動きは見せない。そのため、私たちは植物を「背景」として扱いがちだ。道端の街路樹、庭先の草花、山々を覆う森林。それらは常にそこにあり、静かで、主張しない。結果として、命ある存在であるにもかかわらず、意識の周縁へと追いやられてしまう。
森林はその最たる例である。森林は呼吸し、水を蓄え、土を育て、無数の生物の居場所となり、人間の生活を根底から支えている。しかし、その営みはあまりにも緩やかで、あまりにも長い時間軸の上にあるため、日常の感覚では「活動」として認識されない。木々が成長し、枯れ、更新される過程は、人の一生を超える時間の中で進行する。動いていないように見えるのは、単に私たちの視野が短すぎるからに過ぎない。
その結果、人は森林から受けている恩恵を忘れる。空気があること、水が循環すること、気候が極端に崩れないこと。それらが「自然の働き」であり、植物と森林の継続的な生命活動の成果であるという認識は、次第に薄れていく。恩恵は当然の前提となり、感謝や配慮の対象ではなくなる。
それでも森林は生き続ける。人に気づかれなくとも、称賛されなくとも、植物は光を受け、根を張り、次の世代へと命をつなぐ。人間の無関心の中でさえ、その営みは止まらない。しかし、それを「無言の強さ」と美化してよいのかは疑問である。気づかれないことと、傷つかないことは同義ではない。
動かないから見えないのではない。見ようとしないから、動きが感じられないのである。
人が植物や森林を再び生物として認識するためには、速度と効率を基準とした視点を一度手放し、時間の尺度を広げる必要がある。静かに生きるものの存在を、静かに理解する姿勢が求められている。
森林は今日もそこにある。ただし、それは「ただの風景」ではない。
忘れられながらも恩恵を与え続ける生物として、私たちの生のすぐ隣で、確かに生きている。
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