Japanese | English
– 見せ物の構造と、人間のまなざし –
動物が人間の前で芸をする光景を、私はもう直視できなくなった。
それは怒りというより、理解してしまったあとの拒絶に近い感覚である。
サーカス、猿回し、水族館のショー
霊長類、哺乳類、鳥類、爬虫類
種も環境も異なる彼らに共通しているのは、「人間に見せるために振る舞いを変えさせられている」という一点である。
調教という言葉は中立的に響くが、その実態は、人間の都合に沿う行動のみを選別し、そうでない反応を排除する過程だ。
そこでは、動物が本来もつ行動の意味や文脈は考慮されない。
必要なのは、合図に従い、期待どおりに動くことだけである。
霊長類が人間の仕草を模倣させられ、笑いを誘う存在になるとき。
大型哺乳類が力を抑え込まれ、従順さを示すことで拍手を浴びるとき。
鳥が決められた軌道を飛び、爬虫類が沈黙したまま展示されるとき。
そこにあるのは、多様な生き方の提示ではなく、管理可能であるという証明である。
水族館のショーは、より洗練された形でこの構造を隠す。
教育、感動、共生という言葉が並び、人工的な空間で再現された「自然」が提示される。
だが、高度な社会性をもつ動物が、極端に制限された環境で反復的な行動を求められる状況は、自然の紹介ではなく、人間の理解しやすさを優先した演出にすぎない。
私が最も耐え難く感じるのは、その光景を前にして、何の疑問もなく楽しむ人間の姿である。
拍手し、感動し、「賢い」「かわいい」と口にする。
そこに悪意がないことは理解している。
だからこそ、問題はより深い。
楽しんでいるという事実が、問いを不要にしてしまう。
動物がその行為を望んでいるのか、苦痛やストレスは存在しないのか、そもそもそれを見せる必要があるのか。
そうした問いは、「楽しかった」という感想の前で、簡単に消えていく。
調教された動物は、言葉で拒否できない。
逃げることも、条件を交渉することもできない。
その沈黙は、しばしば同意として誤読される。
だが、沈黙は同意ではない。
それは、声を奪われた状態にすぎない。
動物ショーを楽しめなくなったのは、感受性が過剰になったからではない。
そこにある構造を、構造として認識してしまったからだ。
人間が他の生き物を従わせ、その様子を娯楽として消費するという構図を、一度理解してしまえば、以前と同じ目では見られなくなる。
人間は、自らを知的な存在だと考えている。
であるならば問われるべきなのは、どれだけ多くを楽しめるかではなく、
何を楽しむべきではないと判断できるかではないだろうか。
見ない、参加しない、拍手しない。
それは小さな選択だが、支配の構造に対して距離を取る、ひとつの意思表示である。
コメント