感染という名の匿名の殺人 – 不可視の生命と責任の所在 –

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人間は「動かないもの」を生物として直感的に認識しない傾向をもつ。この認知的特性は、生命理解の根幹に深く関与している。微生物やウイルスは、自律的に歩行せず、表情を持たず、意思を示さない。そのため、それらは生命としてではなく、単なる「現象」や「条件」として扱われがちである。しかし、これら不可視で静的な存在こそが、人類の生存と死に決定的な影響を与えてきた。

微生物とウイルスは、常に二面性をもつ。人間は腸内細菌叢から多大な恩恵を受け、免疫系や代謝の維持を微生物に依存している一方で、感染症という形で致命的な脅威にも晒される。この両義性にもかかわらず、私たちはそれらを「生き物」としてではなく、「リスク」や「資源」として言語化することに慣れすぎている。

満員電車での誰かの咳をきっかけに、感染症に罹患し、死に至る事例は、決して特異な出来事ではない。それは交通事故や理不尽な殺人と同様に、統計の中で日常的に発生している。しかし、そこに「加害者」や「殺意」を見出すことはほとんどない。動かない生命、意図を示さない生命が介在することで、死は匿名化され、倫理的責任の所在は曖昧になる。

だが現実には、人は毎日、誰かを殺している可能性があり、同時に誰かに殺されうる存在である。感染という行為は、明確な悪意を伴わずとも、結果として死をもたらす。ここにおいて、人間は加害者であり被害者であり、その境界は極めて不安定である。

この事実を直視することは不快であり、多くの場合回避される。しかし、生命倫理とは、快適な問いだけを扱う学問ではない。動かない生命を生命として認識できないという人間の認知的盲点は、感染症対策、公共衛生、さらには社会的連帯の倫理にまで影響を及ぼしている。

私たちは、自身が「誰かを殺し、誰かに殺される存在である」という前提を受け入れなければならない。それは人間の残酷さを強調するためではなく、不可視で動かない生命と共に生きる現実を、より誠実に引き受けるためである。その自覚こそが、生命を扱う科学と倫理の出発点となるはずである。

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